Woolfgathering
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Canon EOS 6D
Canon EOS Kiss X3
Canon EOS-3
Canon EOS 650
Sony Ericsson SO-01C Xperia arc

EF-S 18-55mm 3.5-5.6 IS
EF-S 55-250mm F4-5.6 IS
SIGMA 10-20mm F3.5 EX DC HSM
SIGMA 24-70 F2.8 IF EX DG HSM
SIGMA compact macro 50mm F2.8
CARL ZEISS JENA DDR MC FLEKTOGON 35mm F2.4
...etc
Woolfgathering
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Windowsで2TB以上のストレージが正しい容量で認識されない時のためのメモ
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 そう考えると、疑問が生じる。政治が都市運営のアートならば、なぜパリの街は汚いのに東京の街はこんなに美しいのか。パリでは日常的に略奪などの犯罪が起こっているのに、なぜ東京では暴動が起きないのか。アフリカの中流国家並みの政治家しかいない国が、なぜ世界3位の経済大国でいられるのか。

 私が思うに、日本人は自分たちの特異性を強く意識している。だから全員の利害に関わるときはきょうだいのように一致団結する。この集団はびっくりするほど完璧で、自ら運営していけるからリーダーなど必要ない。だがフクシマのような異常事態では違う。ここ一番というときに政治が政治らしく機能できなければ、「機械」もいずれは壊れるだろう。

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こんなに政治家がダメでも日本が機能している理由
ラッカセイ
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 日本においては長いこと、写真はカメラという機械を操る技術でした。今のように誰にでも写真が撮れるわけではなく、操作技術を知らなければ写すことができませんでした。そのために写真の教育は、一にも二にもカメラの扱い方の習得にあてられてきました。

 ところが今やほぼすべての人が携帯電話でデジタル写真を撮るようになり、いつでもどこでも写真を撮ってインターネットにすぐにアップロードできる時代です。誰でも自分が撮った写真を気軽に、手軽に、世界中の人に見てもらえる。それってすごいことだと思いませんか?
(中略)
 その結果、写真は驚くほど身近な存在となり、同時に写真に対する理解もどんどん深まっていきました――という具合になったわけでは残念ながらありません。 
 せっかくカメラの煩雑な操作から解放されたというのに、依然として多くの人が気にするのはピントが合っているか、ブレていないか、明るさは合っているかなどカメラの技術面であり、画素数をはじめとするスペックの話ばかりです。

 そうした現状を見るにつけ、もったいないなあと思うのです。写真は単に、「今日こんなものを食べたよ」「これカワイイ!」といった情報を手軽に伝えるためだけのものではないと思うんです。前著『たのしい写真』にも記したように、写真とは、もっと魅力的かつ奇妙な、そして時には不思議な曖昧さを味方につけたきわめて現代的なメディアだと思うのです。

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ホンマタカシ ― 『たのしい写真3 ワークショップ篇』

写真を初めてやるような子にカメラの使い方ばかり教えても、写真をやる気になるのはそういった写真術に興味を持つ人で、その後に成長するかどうかをその人が持つセンスに任せてしまうことになる。
技術面で最低限必要なラインというのはあるけど、やっぱり写真の見方・読み方・考え方を知れた方が写真の世界に入ってくれる子が増えると思うんだよね。
そういうのをある程度体系化して、写真術の一領域として教えることができればうれしいんだけど、簡単なことじゃないし年々続けるのはもっと難しいと思う。

camera and sunlight
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631 : 名無CCDさん@画素いっぱい[sage] : 2008/03/05(水) 20:36:17 ID:RJDO5i5c0
みなさん、レスどうもです。
やっぱ重くて大きいですよね。

»627
機動飛行は厳しいですか?

»630
一脚の購入も検討してみます。
手持ちで振り回そうと思ってたんですけどw

633 : 名無CCDさん@画素いっぱい[sage] : 2008/03/05(水) 21:44:06 ID:YpVWo/Ip0
あのエビフライみたいなの買えばいいじゃん?

635 : 名無CCDさん@画素いっぱい[sage] : 2008/03/05(水) 21:53:43 ID:mjOUDO8J0
»633
なんだエビフライって?

638 : 名無CCDさん@画素いっぱい[sage] : 2008/03/05(水) 22:10:37 ID:bHryTDlw0
»635
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   ;’`;、、 :、.SIGMA゙: .:゙ :`”’:,’.´ -‐i
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        | |( ´Д`)// <うるせぇ、200-500mm F2.8ぶつけんぞ
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【科学力は】シグマレンズ専用スレ24本目【世界一】
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本職の文章家だけがやっていた、文章を最後の最後まで推敲して、時間かけてクオリティを高めるといった部分が減っているように思うんです。文章力も観察力もある人間は、一回書いたものを、もう一回牛が反芻するみたいにいじくりまわして欲しいと思います。ちょっといじりすぎて困ったな、というものができる場合も多いんですが、そこまでいじくり回す習慣が失われているのではないでしょうか。

私も手で書いていた時代は原稿を書き始めて最初の3年間ぐらいしかありませんが、手で書いている人たちは書いたものに赤を入れて、また書き直してというように、物理的に言葉をいじくり回すときの手間の掛け方が違うわけです。事実確認やウラ取りについても、ググッて見れば終わりで非常に助かっている部分もありますが、昔は調べ物するときに結構苦労したわけです。そういうことを調べる過程で何か別のネタを拾ってくるといったこともあったので、「くだらん手間をかけてくれ」というのはちょっと思いますね。

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現在のネットは「群集」を生成する装置になっている~コラムニスト・小田嶋隆氏インタビュー ― BLOGOS
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よく文章を書くときに、「自己表現」という言葉が使われますよね。でも本来、文章は何かを伝えるために書くわけですよ。その結果として、文章の中に自分というものが現れるんです。対象について書いているのに、その書き方や切り取り方、表現の仕方にその人ならではの言葉の特徴や文体が現れていて、それが自己表現になる。

例えば、ピアノであれば同じ曲を弾いても、弾く人によってタッチが違う。弾き方の強さやテンポのとり方などに、それぞれの特徴が出ます。ピアニストは、ピアノを弾くことで音楽を表現しているわけで、自己表現をしているわけではない。音楽を伝えていても、弾いている人の個性が現れているから、結果的に自己表現になる。あの演奏は彼ならではだよねと。

でも、文章の場合は音楽と違って言葉があるので、「俺ってこうなんだよね」「俺の生き方ってさ」みたいな文章が、自己表現だと勘違いされがちなんですよ。そういうのは正に自分が主題の文章なわけです。これをやっちゃう人たちが凄く増えている感じがしていて、それにはネットの影響も非常に大きいと思います。

ブログは、そもそも日記だから構いません。ブログの中で、「○○食ってうまかった」「こないだから一日2時間しか寝てない」みたいなことを書くのは、まったく問題ないし、その到達範囲がお友だち、あるいはブログ読者に対してであればいい。でも、これが新聞みたいなメディアの社説とか、もう少し公に開かれたものの中で、「俺ってさ」みたいな話をされると「お前の話きいてないんだけどなぁ」という違和感があるんですよね。

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現在のネットは「群集」を生成する装置になっている~コラムニスト・小田嶋隆氏インタビュー ― BLOGOS

「自己表現」に自分を直接語る必要はないということ

"本当に面白いのはその数年後に行われたチェスの世界大会の話。

このチェスの世界大会は2005年に「フリースタイル」という形式で行われたのですが、奇抜なことに、一つのプレイヤー(というかチーム)は、パソコンと人間をどのように組み合わせてもOKという、プロレスでいうところの「バトルロイヤル状態」(?)で対決するというもの。

そうなるとあらゆる組み合わせがOKなわけですから、さまざまなチームがさまざまな組み合わせで戦えるのですが、大きくわけると、①世界チャンピオンを含む「人間だけ」のチームと、②「コンピューター」だけのチーム、そして③「人間とコンピューター」を組み合わせたチーム、の三タイプにわけられました。

その結果、優勝したのはどこかというと、③のチーム。

しかもこのチームは、なんと世界チャンピオンが全くからんでおらず、アマチュアでパソコンを使うのがうまい、たった2人のニューハンプシャー州のアメリカ人

彼らは2005年当時の家庭用のPC2台(デルとHP)の中に、これまたそこらで売っている5つの普通のチェスプログラム(Fritz, Shredder, Junior, Chess Tiger)を使って勝負しております。

しかも予選ではハイドラ(Hydra)という当時世界最強と呼ばれていたチェス・ソフトを負かせており(ハイドラはこの数日後に世界第七位の人間に勝っている)、決勝は14年間世界タイトル保持者であるドブレフ(と2600人以上のオンライン上の専門家たちのアドバイス)に圧勝しているのです。

彼らの勝因ですが、のちに判明したのは、この二人が、どのプレイヤーたちよりもパソコンを効率よく使うのが非常にうまかったという点(このゲームは制限時間が60分しかない)。

しかも特徴的だったのは、たとえばパソコンのソフトやデータベース上のアドバイスでは「あまり良い手ではない」と判断されても、敵のプレイヤーを心理的にうろたえさせることができる手だと思った場合は、それを迷うことなく使ったという点。

この驚きの結果を見て主催者の一人であるカスパロフがコメントしたのは、「コンピューターの戦術レベルでの正確無比な計算能力と、人間の戦略レベルでの指揮が合致したら世界最強だ」というもの。

つまり、これは「人間対コンピューター」という、まさにカスパロフ自身が経験した対立構造ではなく、これからは「人間とコンピューター」が最強になるということなんですが、面白いのはこれが、

●戦略=人間が担当するアート(芸術、術)

●戦術=コンピューターが担当するサイエンス(科学)

という形の、いわば「戦略の階層」における役割分担がますます求められてくる、という示唆が含まれている点です。

ようするにいままでのチェスの強さの発展として見えてきたのは、

1,チェスの世界チャンピオン
3,パソコンのチェス用ソフト(ディープ・ブルー)
2,チェスの世界チャンピオン(とパソコンのソフトの組み合わせ)
3,パソコン操作のうまい、そこそこのアマチュア

という4つの段階。

ちょっと飛躍してしまうかもしれませんが、ここから見えてくるのは、今後の教育ではある程度のテクノロジーの操作のうまさに加えて、潜在的にますますアート的な抽象度の高いところの重要性が高まる、ということではないでしょうか。"
チェスの世界選手権と「戦略の階層」 : 地政学を英国で学んだ (via futureisfailed)